現在、重量挙げの日本代表が練習拠点とする都内の味の素トレセンには、全身を大映しにする鏡やビデオ録画装置、再生用画面が備わっている。今では当たり前の環境も、三宅が第一線にいた60年前は大違い。「当時は小さい鏡しかなかった。どうしても自分を客観的に見ないとフォームが分からないんですね。何とか自分が上げている姿が見たいというわけで、ローマ五輪が終わった後の61年頃、借金をして『キヤノン・ズーム』というカメラを買ったんです」
当時の価格で8万円。サラリーマンの月給が1万円前後だから、現在の価値では100万円超ということになる。映写機も必要で、コニカ製の2万5000円のものを購入。出費は合計で10万円を超えた。「当時、いいカメラといえばドイツのライカなんて30万円もするわけだけど、10万円でも十分すごいお金ですよ。明るかったり、暗かったりうまくいかなかったりもしたけど、これでやっと自分の姿を見て練習できるようになりました」。自分を知る上で、不可欠な投資だった。
もう一つ、ライバルを知るための情報も足りなかった。今でこそインターネットで世界の選手の映像を簡単に見られるが、当時は足を運ぶしかなかった。「ロシア、ポーランド、ハンガリー、チェコ、ドイツ、フランス、イタリア、スペインと。1日どれくらい練習をして、仕事は何をしているか。ライバルの方が練習していれば、自分も負けていられないですよね。あるいは、何人兄弟の何番目なのか。家族構成も、駆け引きに全部関わってきます。僕は9人兄弟の6番目ですけど、兄弟の数から性格を想像して、勝負どころで冷静になるのか、むちゃをして攻めてくるのかも考えていた」
足りない物を地道に補い、東京の頂点へ緻密に歩を進めた。62年世界選手権(ハンガリー)でバンタム級(56キロ以下)優勝。翌63年は五輪に向けてフェザー級(56―60キロ)に階級を上げ、世界選手権(スウェーデン)では同級で最大のライバルだったアイザック・バーガー(米国)を破って優勝。「さらに記録を充実させて東京へ、という流れができました。今思えば、五輪前年には、もう体はでき上がっていたように思います。常に、計画なくして勝利なし、なんですよね」
東京から4年後の68年メキシコ市大会でも連続金メダルに輝き、銅メダルの弟・義行氏(現・日本協会会長)と兄弟で表彰台に立った。72年ミュンヘン五輪(4位)後に現役引退。指導者として後進の育成に携わってきた。そして13年9月。五輪が再び東京にやってくるという一報に心は躍った。(細野 友司)=敬称略、つづく=
◆64年東京大会の名場面 10月10日~24日にアジアで初開催。日本勢初メダルは、開会式翌日の11日に重量挙げバンタム(~56キロ)級で一ノ関史郎が獲得した銅メダルだった。体操男子は遠藤幸雄が個人総合、団体総合、種目別平行棒の3冠を達成。男子マラソンではアベベ(エチオピア)が独走で同種目初の2連覇。日本勢も円谷幸吉が銅メダルを獲得した。女子バレーボールは「東洋の魔女」の異名を取った日本が決勝でソ連を下し金メダル。日本は金16、銀5、銅8の合計29個のメダルを獲得した。
報知新聞社
【あの日の五輪】計画なくして勝利なし…1964年の三宅義信(中)
バレーボールニュース引用元:スポーツ報知

