【幻の五輪代表が語る 失われた夢舞台】#6
池知(現・竹島)晶代さん(女子バレーボール)
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女子バレーボールは、かつて向かうところ敵なしだった。
1964年の東京五輪でバレーボールが正式種目となり、金メダルを獲得した当時の女子チームに付けられた異名は“東洋の魔女”。
その勢いは衰えることなく下の世代へと受け継がれた。68年メキシコ五輪、72年ミュンヘン五輪では銀メダル、76年モントリオール五輪では再び表彰台の真ん中に立った。しかし、金、銀、銀、金と積み重ねてきた記録は、モスクワ五輪ボイコットによって途絶えた。
「まだ当時の気持ちに整理がつきません。40年経った今でも完全には忘れられないです。オリンピックが近づくとあの時のことをどうしても思い出してしまいます」
日本代表ではセンター(ミドルブロッカー)だった竹島氏(旧姓・池知)は、こう明かす。
中高一貫の土佐女子中学への入学当初に身長が168センチあったため、バレー部監督の目に留まり竹島氏の競技人生は幕を開けた。当初は運動など全くしたことがなかったため、軽い気持ちで入部した。
才能もあったのだろう。長身を武器にめきめきと頭角を現し、高校では全国大会を経験。大学や企業からも多くの声が掛かったという。短大や大学へ進学をするチームメートが多い中、竹島氏は富士フイルムでバレーを続ける道を選んだ。
「環境も変わる中で少しずつ挑戦したい気持ちが湧いてきました。いざ、チームに入ってみると練習は本当に厳しかったです。根性と忍耐の時代だったので、早朝から夜中まで毎日ずっと練習漬け。ある程度は覚悟していたけれど本当に驚きました」
■息つく暇もない熾烈な競争
過酷な練習にも耐え、3年目には全日本入りを果たした。同じポジションにライバルが控えているため、全く気が抜けない。合宿では息をつく暇もないほどの熾烈な競争の中で掴み取った五輪への切符だった。
竹島氏はボイコットの翌年、モチベーションが低下し、痛めていた膝も悪化したため、23歳で引退した。
「辞めてからは実家の高知県へ戻り、知人の紹介で母校の高校でバレー部のコーチを1年ほど務め、結婚しました。夫が転勤族で、東京、名古屋、福岡と転々としていましたが、50歳手前でやっと高知へ戻ってきました」
帰郷後は教育委員会に勤務し、同時に高知工科大学の女子バレー部監督に就任した。現在も同大での指導に情熱を注いでいる。
「(東京五輪は)延期ならまだ救いがあるので本当に良かったです。中止になって私たちのように“幻”になったら、選手たちに一生悔いが残ります。2020年に焦点を合わせていた選手は本当に気の毒です。年齢のことや体のどこかを痛めながらもギリギリで取り組んでる選手もたくさんいると思うので」
女子バレーは、今季代表登録者29人のうち、来年の夏には30歳を越える選手が11人。ベテラン選手にとっては、五輪へ挑む最後のチャンスとなりそうだ。
▽1958年1月15日生まれ、高知県南国市出身。土佐女子高校時代に全国大会へ出場。卒業後(76年)は富士フイルムへ入社し、79年全日本入り。81年に引退した。現在は高知工科大学の女子バレー部監督を務める。
女子バレー悲運のセンター池知晶代さん「一生悔いが残る」【幻の五輪代表が語る 失われた夢舞台】
バレーボールニュース引用元:日刊ゲンダイDIGITAL

